1998 モスクワ

モスクワ
 1998年
 小学校4年生と2年生になった我が子を連れての旅も5度目になった。前前年の旅でモスクワのシェルメーチボ空港に降り立ち、捕虜の如くバスに乗せられてトランジットホテルへ軟禁、いや、宿泊したのだが、一人8000円、合計32000円のこのホテルは、寒いうえに、じっとり湿った冷たいベッドでおおいに懲りてしまった。夕食も出たのだが、周りの人たちも黙って口に運んでいる。何の肉か分からない焼き肉と、キュウリとトマトの切っただけのサラダ。これが、わたしのロシアでの最初の料理だった。(もうここに泊まらないでね)子供たちが言った。
 
 今度こそ失敗しないぞと誓って、またしてもアエロフロートに挑戦したのだが、モスクワに到着しても、乗り継ぎの便がない。「LUNCH」と書いてある黄色いカードを4枚渡されたが、ロシア語のできる家人に(これ、ロシア語の搭乗チケットじゃないよね)こう念を押した。ストックホルム行きは、いつ出発するのかわからない。
 4時間以上待っても掲示板に案内がないものだからトランジットの窓口に再度出かけた。窓口では、夜8時に来いといって、また「LUNCH」と書いてあるカードを4枚わたされた。食堂が2階にあって、暖房のない空港で唯一ほんのり暖かい場所だ。そう空腹でもないが、カードを2枚もって配膳係に渡した。いわゆる、チキンカレーなのだろうが、薄黄色の液体を、タイ米にかけたものだった。テーブルで味見をしたが、塩気がない。成田で預けず、全ての荷物を機内に持ち込んできたので、中から塩を探して振りかけて食べた。そのうち子供たちも妻も睡魔に襲われ、テーブルの上で眠りはじめた。

 シェルメーチボ空港の食堂で、荷物を見張っていなければならないので、眠るわけにいかない。成田から出発してすでに17時間。ただ荷物を見張って起きているのは、辛いものだ。そのうち、食堂の閉店時間となった。追い出されて、また寒いロビーに戻り、じっと荷物とフライト掲示板を眺めているのだった。

 午後11時になった。どうするのだ。掲示板には、あと3つのフライトしか残っていなかった。ストックホルムなど、何処にも書いていない。アフリカ行きと、ウランバートル行きと、フロリダ経由サンティァゴ行きの3便だった。サンティァゴってどこかな?など考えていたら、チリの首都だと思い出した。このとき第六感がぴりっと信号を発した。

 警察官のような制服の空港職員を捕まえ、あのサンティァゴ行きはストックホルムに降りるのか尋ねた。我々のチケットを見た職員は「そうだ!急げ」とだけいうと、こっちだと走りはじめた。我々は、荷物をかかえながら職員の後を追った。(一つくらい荷物を持ってくれよ!)
 どうしてこの便がストックホルム経由なのかと思ったのかは、自分でも知らないが、このとき職員に訪ねなかったとしたら、どうなっていたのだろうか。
 
空港一階の通路から外に出ると豪雨だった。バスが留まっていて乗れという。バスには我々4人だけだった。バスの扉は、開け放たれ、寒風が入ってくる。寒さに震え出すがいっこうに出発しない。この日50回目の(いったい、どうなってるんだ!)を叫んだ。

 やっと、バスはドアを閉めて発車し、真っ暗やみの土砂降りの中、機体の前に止まった。
 雨に濡れながら、タラップをのぼり中に入ると、当たり前だが暖房が入っていて暖かい。わたしたちの席は、南米の一族に占拠され、離陸前の機内は彼らの宴会の真っ最中だった。(いったい、どうなってるんだ!)

 アテンダントに促されてやっと座る事が出来た。
「スペイン語が分かるか?」彼らは、新参者のわれらに声をかけてきた。
「ちょっとね」そう答えると笑い声がわき上がった。
愛想笑いをして、シートベルトを締め(やっと眠れる)と、安堵した。

 飛行機は、滑走路に向かって動き出した。
 子供たちはもう熟睡していた。
 エンジンがうなりスピードが上がる。最高速で背中にGがかり、いよいよ空に浮くのかという辺りで、ブレーキがかかった。意に反して猛烈に体が前に倒され、つんのめる体をシートベルトが腹に食い込んで止めた。急ブレーキの反動で、追突さたようにシート後部に頭を打ち付けて、気がつくと飛行機が滑走路の真ん中で止まっていた。(いったい、どうなってるんだ!)
 前の席に乗っていた、アメリカ人の団体が立ち上がり「説明しろ!」と叫んでいた。南米人のグループは、変に静かだった。

 騒然としている客席に機長以下4名が、操縦席から傘と懐中電灯を持って出てきた。
乗客が「何が起きたんだ」と、機長に問いかけると、ロシア人の機長は一言、
「Rain…」そういってタラップから外に出ていった。
 機内は、騒然となった。このまま飛ぶのか、飛ばないのか。飛んでも大丈夫なのか、みんな不安になっていた。わいわい、がやがや、このままでは飛行機から降りかねない乗客が立ち上がっている。この時、ピンポ〜ン。
合図のチャイムが鳴った。乗務員が一斉に動き出した。
アテンダントがみな、カーテンの後ろに下がった。
(何か始まるな)ピンと来た。
彼女たちが、カーテンの中から姿を現した時、思わずのけぞってしまった。
 
 まだ離陸していない、滑走路の真ん中で機内食を配りはじめたのだ。立っていた乗客は、座り出し、機内食を貰って大人しくなり、さっきまでの騒然とした空気は、どこかに消え一瞬にして穏やかなものに変わった。
(これが彼らの外交テクニックか)
 やっとまともな料理を口にし、満腹になると猛烈な睡魔が襲ってきた。もし、この機が事故にあっても家族4人が一緒だし、あきらめるとしよう。機内食も食べずに熟睡している子供たちを見て目を閉じた。
 
 ストックホルムに着陸したのは、覚えていない。熟睡中だった。それどころか、いつモスクワから離陸したのかも覚えていない。(しあわせだなぁ)
 家人に起こされて、ここは機内で、天国ではないと確認した。すべての荷物を抱えて機内から下りた。まだ、夢うつつだ。
 空港の時計は、午前2時半だった。モスクワの空港からどのくらい眠ったのかよくわからないが、子供たちは、えらい元気で走り回っている。空港ロビーは、絨毯張りで一人がけのソファーもあり、暖房も効いている。
これが、資本主義の国だ!監禁を解かれたような気持ちになった。
タクシーの運転手が近寄ってきてホテルまで送ると言うが、これからどうしようか決めかねていた。無人のホテルインフォメーションの電話で何件か尋ねたが、空き部屋はなかった。

 いっそ、このまま夜明かししよう。子供たちは、十分睡眠を取ったらしく、ほぼ無人のロビーを走り回っている。バスの時刻表を見ると、午前6時半にストックホルム行きの始発が出る。それまでここで待機だ。タクシーの運転手に、朝までいるよと告げるとどこかへいってしまった

 ストックホルム駅に早朝到着した我々は、カフェテリアで朝食をすませた。時間をもてあましていた。市内を見物するにも早すぎた。散歩がてらに、のんびりとノーベル賞授賞式のパーティ会場まで出かけたが、団体の観光客が来るまで中に入れなかったので引き返した。
(中を見ないの)子供たちがいった。
(ノーベル賞をもらうとき中に入れるさ)おおぼらを吹いて駅に戻った。

 旅はこのあと、スウェーデンからデンマーク、ドイツ、スイス、さらにスペインのバルセロナまで南下し、パリから成田に帰国するヨーロッパ縦断旅行。膨大な距離になりそうだったので、レンタカーでの移動はあきらめた。久しぶりのユーレイルパスでの列車の旅がはじまる。続