ヨーロッパ子連れ旅1991

1991年 第2回 子連れ旅
四人になって
子供が一人増え二人になって 4人分のチケットが必要なのだ!
期間:1991年 4月18日~5月23日  
長男 3才10カ月~  次男 2才1カ月~
その前に   

1989年 2月14日(火曜日)めるかーどは開店した。  
スペインから帰った後、レストランの開店準備を始めた。そしていよいよ1989年 2月14日(火曜日)オープンすることができた。 北海道の2月は、寒さが一番厳しいころ。なぜ、そんな寒いときにレストランを開店しなければいけなかったか?  答えは、何もすることがなく、退屈でたまらなかったからであった。    
 始めの予定では、4月ころ開店しようと思っていたのだが、1月くらいから、することがなかった。この年齢になるまで、なにもすることがない日々を送ったことがないため、 毎日が日曜日状態に耐えられなくなってしまった。かといって、決して働き者ではないのだが。  
 とにかく、材料をつかって料理を作る練習をしなければいけない。 それじゃぁ、お金もらって練習しよう!っと、ひらめき、開店してしまった。 2月14日、広告宣伝一切なしでスタートしたのであった。練習の内容は、ランチタイムに 日替りで毎日違ったメニューを出そう。 そうきめて、580円と880円のランチを毎日かえて出した。 一年間、毎日違ったランチを作り続けた。 
  夜は、スペイン料理だ。 今度は、毎日が忙しくなって行った。 3月の下旬、ミヨちゃんが男の子(次男)を生んだ。 毎日くたくたに疲れるようになった。 二年たった。アイディアが乏しくなったのもあるが、いろいろ疑問が沸き上がってきた。テーブルにグラスを何個置けばいいのかとか、ワインを正確に扱うのはどうしたらよいのか、はじめはほんの些細な疑問なのだが、いくつもたまってくると一気に解決したくなる。そして、あの湾岸戦争が起こった。  
 湾岸戦争と僕のレストランの接点はなに?
 湾岸戦争と小樽のちっぽけなレストランの共通点などあってたまるか。いやいや、それがあったのでした。
   
 英国航空の日本から500人イギリス無料ご招待キャンペーンを知っていますか?  湾岸戦争で観光客が激減したために行ったキャンペーンなのであります。北海道版のちっぽけな新聞記事をよみ、応募をした段階ですっかり当選したつもりになってしまったのです。 さて、バーチャルな旅の支度を始めるとふたりともパスポートが切れていたのでした。これでは、当選しても行けないではないか。 パスポートを再度作らなければ行けません。子供達ふたりとミヨちゃんが並んで写真をとるのは大変だったことが思い出されます。 僕たちはもう、すっかり旅支度モードに入ってしまっい抜け出せない。だめだ、もうだめだ、当選まで待てない。あこがれのヴァージンアトランティック航空に乗りたい! 知り合いから、コンパクトな乳母車も借りてしまった。
 
4/18   ロンドン ガトウィック空港着。 
 天候 雪…さむー 。いくら北海道が北国でも、この時期雪が振ることなど殆どありません。1991のヴィンテージチャートがどうだったか知っていますか。そんな寒いヨーロッパ旅行のはじまりでした。
 子供達は、そんなにぐずりはしなかったけど、長い飛行機に疲れ切っていた。一緒に乗り合わせた赤ちゃんは最初からずっと機嫌が悪そうでした。着いたら、雪模様の天気。これから、どうやって乗り物を乗り継いで目指すホテルに辿り着くのか。荷物も多いし、子供達もおんぶにだっこしなければいけません。そのとき、ミヨちゃんは言いました。
「タクシーにしたら」    
テニスはしないけどウインブルドンホテル宿泊  ロンドン。2年半振りのロンドン。
 
4/21 パリ着 ド・ゴール空港でレンタカーを初めて借りる。      
子供二人を連れて、列車の旅は、辛そうで、清水の舞台から飛び降りるつも     りで、ヨーロッパ初挑戦。とりあえずオートマチック車を借りた。      
イグニッションキーを回してもエンジンがかからん!?なんで?      
係のお姉さんがやってきて、ドアをあけ、ちょいとしゃがんで引っぱった。      『チョーク』…ウッソ!今どきトラックにもついとらんぞ!      

パリの町には降りず、ひたすら高速の真ん中車線をキープしたまま、流れに任せて南下した。どこに行くかなんか最初から決めていない。地理もわからない、地図も無い。家族4人を乗せた車は、意思のないままただ走って行った。真ん中車線は、追い越すでもなく、インターで降りるでもなく、ただ走る分には ほかの車に迷惑をかけない。行き先が決まっていないから、運転に迷いがない。
「この車、どこに行きたいんだ!」と、叱られる運転ではないのだ。

左ハンドル右走行に慣れながら「ボルドー」の表示方向に向かって行った。そろそろ目がしょぼつきだした。一日目の限界だ。高速からロアールのBloiブロアという場所で降りた。高速から降りたとたん、一般道でいきなり縁石に乗り上げていまった。もうたまらん。
陽がそろそろ西に傾きだした。当てもなくたどり着いたのが、ブロワという中世がそのまま残る街だった。今夜の宿を探そう。できれば下が飯屋で泊まれるところがいい。 ロアールの川沿いに安っぽいイタリア食堂とホテルの看板。理想だ。家族経営で観光シーズンでもないから空室はあった。子供連れは、飛び込みでも泊めてもらえることが多い。

翌日、車でシャンボール城へ出かけた。おとぎの国にでも登場しそうなロアールを代表する豪華な城は、レオナルド ダ ビンチも設計にかかわっているとか。小一時間過ごして次の目的地コニャックへ向かった。

当時「レミ入れて!」と、バブルの酒場ではレミーマルタンやヘネシーといったブランデーの中でもコニャック産が最も流行っていたのだった。ロアールからボルドーへ向かう高速道路から途中降りて平原を走るとコニャックの標識が見えてくる。今夜は、ここの酒蔵を見学して泊まろうともくろんでいた。世界の高級酒の産地だ。きっと素敵なレストランやホテルがあるに違いない。途中観光バスが酒蔵に向かってすれ違う。まず、宿を探してから酒蔵に行こう。だが、町の中心部と思われる辺りには、場末のホテルとくたびれた食堂しかない。世界のコニャックが、泊まるところも無いのか。宿泊をあきらめ、ボルドーへ向かった。

   
4/23 メドック走破シャトーマルゴーへ。サンテステフで引き返す。    
4/26 アルタミラ洞窟へ    
4/28 クエンカ    
4/30  ヴァレンシア    
5/1  ガンディア    
5/5  バルセロナ     
5/6  コスタブラバ    
5/7 ニース  モンテカルロF1レース    
5/10 スイス     
5/11 チューリッヒ    
5/12 ドイツの見知らぬホテル    
5/13 ミュンヘン    
5/14 バートライヘンハル ザルツブルグ    
5/17 ロマネ    
5/18 パリ 迷子    
5/20  オルセー美術館 エッフェル塔 徒歩でのぼる。   少しずつ書き足して参ります。